昨年来、新型コロナ感染症予防の見地から、ご利用者さまとご家族のオンライン面会を実施しており、日々そのお手伝いをさせていただいております。ご利用者さまがご家族にご自身の「思い出」をお話になるお姿は、とても楽しそうに見えます。
当施設のご利用者さまの中には80歳を越えていらっしゃる方もたくさんおられます。今年2021年は終戦から76年目。かつて歴史の授業で「知識」として習った戦争をその身で体験なさった方々が、自分の身近におられるのだと気が付いたとき、ご利用者さまお一人お一人の「思い出」が「歴史」として紡がれていることに、しみじみと感動いたしました。50歳を越えた自分が、たとえば30年前の出来事であってもその実感を伴って思い出すことを考えれば、ご利用者さまも、ご自身の「思い出」をご自身の生きた人生として、大切にご家族に語っておられるのだと思います。
ところで、日本の古典文学の中に「歴史物語」というジャンルがあり、その代表的な作品に「大鏡」と呼ばれる物語があります。平安時代のはじめ(「鳴くよ鶯平安京」なんて年代語呂合わせを覚えた方もいらっしゃいますよね?)から同時代の有力貴族藤原道長の権勢盛んな時代(だいたい西暦1000年ごろ)までの貴族社会のさまざまな出来事を綴った作品です。この作品に限らず、「歴史物語」の中には題名に『鏡』を冠するものがいくつかあります(「ダイコンミズマシ」といった語呂でその作品群を覚えた方もおられるのではないでしょうか)が、この意味は、これらの作品を読むと読者の知らない「歴史」を見てとることができる、いわば「昔を映し出す鏡」ということのようです。そういえば、少し前にヒットした「ハリーポッター」というシリーズものの洋画の一場面で、主人公の少年が通う魔法学校の校長先生が、水を張った盆を鏡のようにして自身の記憶を映し出すシーンがありました。自分の知らない「歴史」を目の当たりにしたいという思いは、洋の東西を問わず、人間の基本的な欲求なのかもしれません。
ただ、この「大鏡」の魅力は、「歴史」を見てとるということだけにはとどまりません。この作品は、190歳の大宅世継と180歳の夏山繁樹という二人の超高齢者がある寺の説法会で出会い、交わし始めた思い出話=「昔語り」を、物語の作者が聞き取るという体裁になっています。また、二人の老人の会話のやりとりに、時に30歳ぐらいの侍が割って入って、話題の出来事の裏事情を問いかけ、それに二大長老が答えるといった場面もあります。つまり、二大長老が自身の人生で直接見聞きした経験を語り伝えているわけで、読者には、単なる過去の知識ということ以上に、現実味を伴って受け取ることができるしかけになっています。教科書を読むように一方通行的に知識を受け取るのとは異なり、出来事に関わる一人一人の人間の人生が紡がれて、生きた「歴史」が出来上がっていく様子を感じ取ることができるところに、この「大鏡」という作品の魅力があると、私は思います。
さて、この「昔語り」は、実は現代にもいたるところにあります。オンライン面会も含めて、当施設のご利用者が日々ご家族や私たち職員に語り掛けてくださる様々な「思い出」のお話が、まさにそれです。こういったお話=「昔語り」を聞かせていただく中で、ご利用者の方々お一人お一人が生きてこられた時間に思いを馳せ、自分の人生の時間を重ね合わると、今この瞬間にも「歴史」が、生き生きと紡がれていることを実感します。生きた方々の体験の分だけさまざまな人生があり、その数が多いほど人の世が豊かであることの証になる……ご高齢の方々を敬うべき根拠もここにあると思います。
昨年から続く新型コロナの世界的な流行も、いずれ歴史の教科書に数行にまとめられて記載されることでしょう。巷で簡単に語られてきた様々な歴史的な「知識」と同じです。しかし、そんな「知識」一つ一つの深層には、その時に生きた人間の一人一人の人生の豊かな時間があるわけです。ご利用者お一人お一人の「昔語り」をお聞かせいただくことは、その豊かさに触れることです。こういったことも高齢者介護施設で働くことの魅力の一つなのではないでしょうか。(鴨脚浮瀬)